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・日本に伝わるまでの経緯
 
 仏教の教えは、お釈迦様が説かれた生きる物すべてを救う教えです。その教えを書き留めた物がお経です。お釈迦様は、紀元前5世紀頃の人で、印刷機など無い時代ですので、お釈迦様の教えを正しく伝える為に、お経典を複製するための写経が行われておりました。こうして仏教は、写経されたお経典を通して、徐々にアジアに広がっていきました。
 二世紀〜四世紀頃、当時の中国である後漢の明帝の時代、勅命によって、僧がインドへと出向き、お経典が中国へと伝えられました。その後、中国でインドの言葉から中国の言葉に翻訳されました。その後、南北朝から隋・唐の時代にかけて、写経は全盛期を迎えます。このころには、国家事業として、専門家の手によって写経されました。しかし、その後の時代になると、徐々に木版による印刷が普及し、お経典伝持のための写経は徐々に必要が無くなっていきました。



 ・日本での写経の推移

 日本に仏教が伝えられたのは、六世紀頃で、それから、徐々に広まり、それに伴い写経も行われていたと思われます。古い記録によりますと、「日本書紀」に六七二年にお経典を書写させたという記述があります。
 奈良時代になると、国家事業として、国分寺を全国に創建し、寺院や僧侶の数が急激に増えました。それに伴い、お経典の数を増やすために、写経所を作り、より盛んに写経されたようです。法華経を始め、多くの経典には写経の功徳が力強く説かれていますので、当時の人々は、その功徳を思い、平和と繁栄を祈願し、故人を弔い、懺悔滅罪、病気平癒などを願った事でしょう。
 中国から日本にお経典が伝わってきた当初から奈良時代にかけての写経は、国を治めるためや経典流布のために、写経所で行われた国家事業でしたが、奈良時代末期には、すでに写経所も解散され、個人的な供養・祈願、または個人の修行として行われるようになりました。そこに新しい写経、如法写経が生まれました。
 如法写経は、天台宗の僧・慈覚大師円仁によってはじめられました。これは、法華経の法師品に説かれている修行の仕方、供養の仕方にのっとって、円仁が法華経を書写したことから、法の如く写経することを「如法写経」と呼ぶようになったといわれています。
 円仁は、天長十年(八三三年)ごろ、四〇歳ほどでしたが、体は衰え眼は見えなくなり、もう長くないと思い、比叡山に住み、臨終を迎えようと思っていました。ここで3年間、仏道修行に励みました。その際に、円仁が石墨草筆をもって法華経を書写し、経を小塔に納めて堂内に安置しました。これが写経の始まりで、この後、書写した経を経筒に納めて、仏寺社殿または墓辺に埋納することが盛んに行われるようになったといわれています。この写経は、以後、長く受け継がれていきます。現在でも、略式になったとはいえ、大勢で写経を行う写経会が多くのお寺で行われています。